【芸能】国民的女優なのに代表作が浮かばない… 吉永小百合(81)がそれでも愛され続けるワケ
【芸能】国民的女優なのに代表作が浮かばない… 吉永小百合(81)がそれでも愛され続けるワケ

1 冬月記者 ★ :2026/07/16(木) 20:46:07.50 ID:qs2ks6Ww9
国民的女優なのに代表作が浮かばない… 吉永小百合がそれでも愛され続けるワケ
吉永小百合ほど不思議なスターはいないかもしれない。誰もが名前を知っていて、多くの人が好意を抱いている。
それなのに、「好きな映画は?」と聞かれると答えに詰まる人も少なくない。なぜ人々は彼女に惹かれ続けるのか。
関川夏央による日活映画論『昭和が明るかった頃』(文藝春秋、2002年)は、次のような言葉から始まる。「長年、不思議に思っていることがある。それは吉永小百合の出る映画は、なぜつまらないかということである」。
「つまらない」かどうかはいったん措くとしても、このような問いが生じること自体が、吉永小百合という存在の「不思議」を示しているように思われる。
出演映画は120本を超えるのだから、彼女が文字通りの「スター」であることは疑い得ない。同時に、彼女の演じる役柄が固定的だったのも事実である。
吉永が体現したのは、高度経済成長期の前半の時代精神であり、「民主的で向上心にあふれた戦後」だったとも関川は述べている。
確かに、吉永が演じた役柄は、民主的で向上心にあふれる青春のイメージに収まるものが多い。戦後に対する評価と吉永に対する評価には、どこか通じる部分があるのだろう。
では、戦後日本の人びとは吉永小百合に何を求めたのだろうか。そして、彼女自身は何を考えて戦後を生きたのだろうか。自伝『夢一途』(主婦と生活社、1988年)から、吉永小百合の来歴を辿りつつ、この問題を考えてみたい。
● 給食費が払えず「忘れました」 借金取りが来る家庭で育った
吉永は、1945年3月13日に東京・渋谷区に生まれた。いわゆる東京大空襲の直後である。生家は奇跡的に焼け残ったが、敗戦間際から直後の時期の食糧事情は悪く、吉永家はふたりの娘を育てるのに苦労したという。
父親はかつて外務省に勤めていたが、1943年に転職していた。新たな勤め先は、情報局に付設され出版統制を担った日本出版会だった。
戦後になって出版事業を立ち上げるも失敗。家計は火の車となり、家には税務署の役人が差し押さえに来たり、借金取りが来たりしたという。
吉永は小学生の時に、給食費が払えず、何度も「忘れてきました」と繰り返すという苦い経験をしたというが、彼女が芸能活動を始めたのは、両親の強い希望だけでなく、生活苦も影響していたのかもしれない。
1956年、ラジオドラマ『赤胴鈴之助』の子役に応募すると、千葉周作の娘「さゆり」役に選ばれる(本名と同じ役名だったのは偶然である)。1959年には、『朝を呼ぶ口笛』で映画に初出演。
芸能活動が軌道に乗ると、勉強の時間を確保するのが難しくなるが、彼女の強い希望により都立駒場高校に進学した。普通の高校生活を望んでいた吉永だったが、学費は自分で稼いでほしいという母親の意向もあり、日活と専属契約を結んで芸能活動を継続することになる。
しかし、芸能活動と学業の両立は難しく、進級が困難となったため、1961年に精華学園高校に転入せざるを得なかった。同校は芸能人が数多く通う高校として知られていた。
● 吉永の女優像を決定づけた 映画『キューポラのある街』
この頃、彼女は自身のキャリアにとって重要な映画に出演している。『キューポラのある街』(1962年)である。
吉永が演じたのは中学3年の主人公・ジュン。鋳物工場の近くの長屋に家族5人で住んでいる。彼女は父親の失業による貧困が理由で高校進学をあきらめるが、トランジスタ組み立て工場で働きながら、定時制に通うことに積極的な意義を見出していく。自分で人生を切り開くためには、自分で稼ぐしかない。その決断に至る中学3年生の緊張・葛藤がまぶしい。
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